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カテゴリ:千軒の歴史( 13 )

講演「箱館戦争と開陽丸」@石橋藤雄先生

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10月17日午後1時より
福島町福祉センターにて

石橋藤雄先生の
講演「箱館戦争と開陽丸」
がありました。
福島町教育委員会・福島町史研究会共催

いまある江差の開陽丸(復元船)とその展示資料は
この石橋藤雄先生のご努力のたまものと聞いていましたが
如実に知ることができました。

あの司馬遼太郎が「街道をゆく 北海道の諸道」にて
石橋先生のお名前とそのお人柄を描いたのは
あまりにも有名です。

最近では、山本寛斎氏が
新刊「熱き心」PHP新書にて
尊敬する偉大な人物3人を描写していますが
ピカソ・司馬遼太郎のつぎに描かれた人物が石橋先生です。

御縁があり、福島町にてのご講演をいただきました。

箱館戦争渦中の榎本武揚が
江差で座礁した開陽丸から降りたあと
松前・福島殿様街道を経由して五稜郭へ帰った話や

シーボルトの逸話にはじめ
開陽丸発掘までのご自身の苦労話は
手に汗握る迫真のスペクタクルで
身につまされました。

また、地味でも記録を取ることの重要性。
その記録あってこその説得力。
開陽丸を調べていた
山本寛斎氏を夢中にせた意味が
よく理解できた講演内容でした。
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by anjls | 2009-10-17 18:34 | 千軒の歴史

第3回永田富智先生歴史講座

「松前藩の創立」と題して
永田富智先生手作りの資料により
下記の詳細な説明をいただきました。
・松前藩の成立
・福山館の築立て
・初期藩主状況

一般参加もOKですので
興味のある方は是非受講してください。
日時は、近くなりましたらこのブログにて
お知らせする予定です。
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by anjls | 2007-06-11 17:13 | 千軒の歴史

シリーズ”伊能忠敬の道(福島町-知内町)”←監修:永田富智先生

手持ちの資料を通じて
千軒岳山麓一帯の松前・福島・知内各町の郷土の歴史を学びましょう。
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この資料は、平成11年開催された全国伊能忠敬ウォーク主催者の要望をうけ
北海道を代表する郷土史家永田富智先生が地元の松前・福島・知内各町の歴史を解りやすく紐解いたものです。地域の歴史を学ぶには必須の資料ですのでご覧下さい。
なお、地図上の番号が資料の表頭のマップ番号とリンクします。
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by anjls | 2006-11-11 06:09 | 千軒の歴史

シリーズ”伊能忠敬の道(松前町-福島町)”←監修:永田富智先生

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by anjls | 2006-11-11 06:00 | 千軒の歴史

1620年カルワリオ神父による報告書←千軒の記録

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1600年代初頭北海道へ初めて来たヨーロッパ人アンジェリスとカルワリオ
前回、アンジェリスの蝦夷国報告書を掲載しましたが
今回は、もうひとりの宣教師カルワリオの報告書を掲載します。
彼は、アンジェリスが為しえなかった、千軒岳砂金堀にまぎれた信者へ福音を与えた人。
北海道初のミサを行った方なのです。以下はその報告書からの抜粋です。
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聖母被昇天 (八月十五日) の祭典
私が金山(カナヤマ)から余り遠くない所に新しくつくられた藁屋ばかりの一部落に着くと、 一人のキリシタンの小屋で祭壇の仕度をした。 その小屋の壁は木の板でできていて、 屋根はコルクに似た樹皮で葺いてあったが、 非常に清潔で、 幕で飾ってあり、 私の到着前に一種の祭壇が板でうまい具合いに作ってあった。
 その家で私は聖母被昇天 (八月十五日) の祭典を挙げた。 その時、 私は日本の諸地方で見てきた豪華な、 かつ立派に装飾された教会堂でこの祝日に多数の人が集まり、 キリシタンたちのいろいろな遊戯や余興を加えて催された祭典を思い出して、 涙を禁じえなかった。 それもその追憶の故よりも、 このたび発見された最果ての地において、 私こそこの聖なる日を祝うことのできた最初の者である、 という慰悦の故でもあったのである。 キリシタンたちの告解を聴いてここで一週間を過ごしたが、 金山のキリシタンたちはみんな、 病人までも加えて、 そのために入れ替り立ち替りしてやってきたし、 また仕事から離れることのできた幾人かにも洗礼を授けた。 それが終わって松前(マツマイ)の町へ戻った。 キリシタンたちはいちじるしい親愛の様子を示し、 名残りを惜しんで、 私に別れを告げた。 ことに、 かつては我が会の同宿(ドウシュク= 教え方) であり今はその地に金掘(カナホ)りとなって働いている人、 すなわちドウキュウ・ドミンゴスとガイファン・ディオゴの二人は、 私について行きたいと希望し、 私のキリシタン団の仕事で我々、 パードレ (神父) ・アンジェリスと私とを援助してもらうのに連れて行きたかったのだが、 鉱山に働く契約がまだ終了してなかったのである。 それでもこの仕事が終れば、 年内にも來ると約束をした。
←カルワ-リュ神父(上智大学 H・チ-スリク神父 訳)

と千軒金山(カナヤマ)での砂金掘のなかに、 多くのキリシタン宗徒がおり、 金山の中心部落に仮設の教会堂があり、 ここで八月十五日の雪の聖母被昇天のミサ聖祭を厳粛のうちに挙げ、 さらに一週間この地に留まって、 信者の告解を聴き、 多くの人達に福音を与え、 また新たに洗礼を授かる者もあったことを記録していて、 千軒金山の具体的規模と、 そこに住むキリシタン宗徒の信教状況を詳しく述べていて、 福島町のキリシタン史上、 極めて重要な史料となっている。
-福島町史通説編(上)より-
【写真】永田富智先生資料集より
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by anjls | 2006-04-07 14:42 | 千軒の歴史

デ・アンジェリスのポルトガル語報告書

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1619年北海道へ初めて来たヨーロッパ人
ジェロニモ・デ・アンジェリス
は、松前の地で見聞した蝦夷地情報を
克明に記し、報告書を作成した。
ポルトガル語で書かれたこの蝦夷国報告書は
ローマのイエズス会本部へと送られました。

江戸の日本人よりもいちはやく
ローマの一般市民は蝦夷地情報を知っていたとか。
おどろきです。
【写真】永田富智先生資料から
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by anjls | 2006-03-29 07:17 | 千軒の歴史

金山番所 江戸時代初期遺構 千軒岳

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そこは、上、中、下の三段に分かれ、三方を石垣に囲まれた、古い時代にはいかにも建物が建っていたらしく見える平地である。
 石垣の積み方を見ても、表面より奥行きが長い。使用された石は、自然石を割ったものである。これは、「乱石積み」といわれる積み方で、表面は粗末に見えるが、非常に丈夫な方法で、江戸時代初期のものである。松前藩が近世初期、福山館を修造したときは、この千軒岳の工夫を徴用して石垣を築いている。工夫たちは、同じ手法でここも築いたのだろう。-「えぞキリシタン」永田富智先生著講談社刊P72より-

【写真】1998.07.26撮影、福島町商工会青年部による遺構調査測量状況

ちなみに、この石積遺構には税を徴収する御番所という役所があったといわれている。今は金山(かなやま)番所と呼ばれています。
→千軒地区にはもう一カ所御番所があった。いまの、国道228号綱配橋の右岸に下りの坂があるが、その名を番所跡があったことから「御番坂」という。
後世、音読み表記が別の意味に転用表記され、「(御番)ゴバン坂」→「碁盤坂」(国鉄時代は駅名)となった。殿様がこの坂で囲碁を打ったなどとの新説までも生まれたのです。おもしろいですね。
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by anjls | 2006-03-28 07:37 | 千軒の歴史

オリカナイ村から福島村へ 寛永元年

よく、福島町は福島県人が住みついた場所ですか。
と尋ねられることがあります。
答えはNO。
福島町史通説編に解答がありましたので
お知らせいたします。

元和三年(1617)千軒金山発掘以来
オリカナイの村には
不漁不作プラス数々の火災
がつづきますが
その不幸を取り払うための改名
だったようであります。
変えなさいと命じたのは
今現在も
福島町月崎の海岸に鎮座まします
月崎明神さまでした。
改名後は
多漁豊作繁栄ノ村
となったようであります。
そろそろ、次回の
ご神託?いつでしょう。
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【写真】月崎神社(H17=2005年の福島大神宮祭礼2日目)
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『常磐井家福島沿革史』 で折加内(おりかない)村が福島村と改村したのは寛永元年(一六二四)であるといわれるが、 その記事として

金掘等金山祭ノ爲メ千軒岳ノ麓ナル隅 (住) 川へ祠ヲ建テ千軒山三社大明神ト尊敬シ奉レリ、 元和三年(1617)金山発掘以来村内不漁不作ニノミ打続キ戸数僅カニ四十戸ニ及ベリ、 火災数々起リ今ヤ当村中絶ニ至ラントセリ、 時ニ月崎明神ノ神託アリ、 ヲリカナイ村ヲ改メテ福島村トセヨトノ仰ナリ、 仍リテ松前志摩守公広ヘ右之趣キ申上改村ノ件願出タル処、 御聴済トナリ夫ヨリ多漁豊作繁栄ノ村トナリタリ、 其御礼トシテ御城内ノ正月ノ御門松ヲ年々献上スルヲ例トセリ… (以下略)

とあって寛永元年改村して福島村となったといい、 吉岡村についても 『凾館支廳管内町村誌 其二 吉岡村』 で、 「本村元ハ穏内オムナイト称セリ、 蝦夷語ニテ意ハ 「尻の塞ふさがる川」 ナリ土地濘葮叢生ねいとうよしそうせいセシ所ナリシヲ以テ里人葮岡ヨシオカト称シタリ、 寛永ノ頃ヨリ吉岡ト吉ノ字ヲ用ヒタリト伝フ」 とあって、 福島村と期を同じくして改村している。 このようなことから見ると、 近世の松前藩体制のなかでこの寛永期 (一六二四~四三) に、 小集落から村としての格付けがされて行ったのではないかと考えられる。
--以上、福島町史通説編(上)より--
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by anjls | 2006-03-27 04:45 | 千軒の歴史

1856-1916-2005 福島町前浜の変遷

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津軽海峡に面した福島町の前浜を150年に渡って比較することができます。
【写真上】1856年平尾ろせん(安政3年)作画「箱館紀行」福嶌邑(ふくしまむら)磯頭之図より(旅をしたのは安政2年)
【写真中】1916年(大正5年)「渡島支庁管内町村誌」より北海道立文書館所蔵
【写真下】2005年(平成17年)9月例大祭の日に福島大神宮境内から
写真の特徴
○上・中の写真に共通→帆掛け船が写っている。
○山並(池の岱・丸山・岩部岳)は火山噴火の跡を物語っている。
○1623年ゴールドラッシュ:写真右端の海岸にある「舟隠し」という岩場からこの山々を越えて左方向にそびえる千軒岳(写真には写っていない)金山へと隠れキリシタンたちは進んでいったのです。
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by anjls | 2006-03-22 05:35 | 千軒の歴史

<せんげん>その名前の由来

みなさんご存じでしたでしょうか。
いまは「千軒」と表記されていますが、
古くは「浅間」でセンゲンとよませていたようです。
千軒の家があった、もしくは沢山の家があった
という意味を付け加えたのはずーっと後のことです。

興味のある方は下記永田富智先生の「福島町史概説編(上)」をご覧下さい。
福島町HPでご覧になれます。
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/chiyohshi/mokuji/index.html
上記URLから下記へと進んでください。
第二編 中世の福島 → 第一章 和人の蝦夷地定着 → 第二節 山岳信仰と岬信仰

---以下抜粋--
『福山秘府・年歴之四』 によれば、 大千軒岳は近世初頭に於ては、
淺間(せんげん)岳または欝金(うっこん)岳と称したと記録されている。
これは山岳信仰の浅間(あさま)信仰を導入して、 山自体を御神体と
していたと思われ、 この山に対し灯明を備える意味の灯明岳、 神聖な
山へ登拝するための袴腰(はかまごし (越)) 岳などの名が付された
もので、 古来から千軒岳は神聖な山岳信仰の中心であった。
この山が近世初頭砂金金山(かなやま)の開削によって多くの金掘りが
入り込み、 その砂金掘の家が千軒もあったということで、 現在の千軒岳
に改称されたものと思われる。
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by anjls | 2006-03-18 06:41 | 千軒の歴史